Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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A.3

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邑中:実際には癒しが必要な人と必要でない人がいると思います。現在は癒しブームということですが、ブームということで、癒しなんか気にしても無い、癒されたくも無い人たちが考慮の対象外になってしまう問題があるように思います。社会全体の雰囲気として癒しが必要なんだ、となってしまうことによって見えなくなる問題もあるのではないでしょうか。先程の発表では、時間の都合で一番言いたい事が言えなかったのでここで補足させて頂きますと…、十五ページを参照頂きたいのですが、拙論では、個人を集団との関係から四つのタイプに分類しています。タイプAが「定着する集団主義者」、タイプBが「漂泊する集団主義者」、タイプCが「漂泊する個人主義者」、タイプDが「定着する個人主義者」です。今まで、日本で個人主義者と言われてきたのは、集団からはみ出てしまった人たちなわけで、この中にはタイプBとタイプCの二つのタイプが含まれる。つまり、これまで日本で言われてきたところの個人主義的行動を取っている人の中には、癒しが必要な人と必要でない人がいる。一見、行動だけみれば、両者とも個人主義なので、同じように見られがちなのですが、実は行動の原理が違うので、わけて考えた方がいい。
タイプB(「漂泊する集団主義者」)の中で、消極的な人、行動するエネルギーが足りない人が、自分探しとはあえてわけて、居場所探しと私はいっているのですが、「居場所探しの人」です。今までの日本社会では、タイプA(「定着する集団主義者」)が、大和魂などもそうだと思うのですが、日本人の集団主義として、非常に学校の教育もそうですが、あるべき人のタイプとされてきました。その中で、集団からはみ出てしまう人たち、少し前だと新人類と呼ばれた人たち、がいて、そういう人たちは、タイプA(「定着する集団主義者」)からは個人主義だと言われます。学校などではちゃんと皆と仲良くしなさい、などと先生から怒られるタイプですね。そういう集団からはみでた人たちの間にも、実は自分に居心地のよい別の集団を探しているだけの人もいて、これが居場所探しです。これとは別に本当に自分と向き合う、自分探しの人たちがいて、これがタイプC(「漂泊する個人主義者」)です。

今の日本では、個人ベースのレベルではなく、社会として「集団主義の日本ではこれからのグローバル化時代を乗り切れない」という雰囲気があります。つまり、これからの日本は、グローバル・スタンダードで欧米の個人主義を行くしかない、国民はタイプCにならなきゃいけないということで、タイプCの基盤がない日本でその基盤を作っていこうというのが、構造改革です。構造改革をしようとしたとき、既得権益が侵されるタイプAは、抵抗主義にならざるをえません。

話を癒しに戻すと、ぐらついている集団主義者が、現実からひと時離れて、疲れるけどお疲れさん、と言って欲しいのが癒しになるのではないのか。つまり今まで揺ぎ無い集団の中に定着していた集団主義者たるタイプAが現代社会の激動のために揺らいでしまい、放り出されてしまった。そうしてやむを得ず漂泊する集団主義者であるタイプBとなった人が、その漂泊する状態に耐えられずひと時忘れるために、どうしても必要なものが癒しなのではないかと思います。

逆に、個人主義的に漂泊している人たち、つまりタイプCにとっては、癒しというのは、常に自分探しからの逃避になるので、マイナスなのです。自分探しは自分を探さなきゃいけないから、逃避してる暇はないんです。そういう人たちは、癒しを必要としない。こういうふうに、日本社会全体のブームとして癒しはあるのだけれど、それはやっぱりこれまでの日本というもの、国内でうまくことが運んできた組織、例えば官庁の指導下にあって安穏としてきた大企業といった存在が揺らいできたために、はじき出された人たちにとって絶対に必要なものとして、癒しがでてきてるんじゃないかと思います。

武者小路:今のご意見はとても面白いし、とても鋭い分析だと思うのですが、この集団主義的行動と書いていらっしゃるのは、周りの人たちが集団主義的だという環境、集団主義的制度が支配しているところだという意味なのでしょうか。個人主義的行動についても、周りが個人主義的だという類型はないのでしょうか。

邑中:自然状態の社会では、純粋に個人主義者ばかりの集団も純粋に集団主義者ばかりの集団もありえないと思っています。おっしゃるとおり、これらの分類につけられたタイプごとのネーミングは日本社会を念頭に置いたものですが、類型自体は客観的なものにするよう努めましたので、周りの人たちの規範や行動は関係してこないと思っています。類型の定義について補足しますと、まず、個人主義的行動、集団主義的行動については、浜口恵俊の論文に(『「間の文化」と「独の文化」』知泉書館、2003)、集団主義と個人主義について属性をまとめたものがありまして(前掲書、212ページ~)、それは彼の思い入れもあって価値観が入っていたので、それに修正を加えて、拙論の14ページ一番下のところ、「相互依存:相手の立場にたってものを考え、積極的に他を支える態度が対人関係で望ましい、とする考え方によってとられる態度」と、「相互信頼:互いが自己をさらけだすことによって信頼関係を樹立し、互助的に相互の課題を解決しようとする考え方によってとられる態度」と、三番目に「対人関係の本質視:対人関係はそれ自体値打ちのあるものであり、相手が役に立つか立たないかによって関係を継続したり、断ったりすることは妥当ではない、という考え方によってとられる態度」という三つ(のいずれかあるいはすべて)が含まれているのが集団主義、浜口恵俊は間人主義という言葉を使っていますが、これを集団主義的行動としました。

個人主義的行動というのは、これは拙論の15ページですが、まず「自我中心:自我に基づいた自分の立場でものを考え、自分の考えを他にはっきりと表明することが対人関係に望ましい」、つまり他人に合わせるんじゃなくて自分はこういう人間である、と言って他人にこういう人間だとわかってもらうことが必要だ、という事に基づいての行動。それと「自己依拠:お互いにプライバシーを尊重して、自己の課題にあたっては、他人に頼らず自分の力によって、また自己の責任において成し遂げるのが当然だ」、つまり、自分の事は自分で解決しなさい、という事を自分にも他人にも求めるような行動。そして三番目に「対人関係の手段視:対人関係は功利的、機能的な役割関係であって相手が役に立つか、立たないかで関係を継続したり断ったりできる、という考え方によってとられる態度」の三つの要素のいずれかあるいはすべてが含まれているのが個人主義的行動です。

濱口論文では、これらが具体的な行動として四十八の項目となっていて、実際にアンケートを採って分析しているのですが、そうしたことをみると、濱口の分類は、行動に対しての分析だと思いまして、行動についての分類だけでは人々の属性の分類には不十分だと考えて、行動の分類にアイデンティティを基軸にさらに分類してみたのが、この図(図4「個人主義・集団主義と組織」)です。集団主義的な行動をとる個人主義者もいるし、個人主義的行動を取らざるをえない集団主義者もいるだろうと考えて、分類してみたのです。

武者小路:わたくしの質問は、浜口さんの論文の問題です。アメリカの社会心理学は基本的にボランタリズムだと思います。個人が自由意志をもって、自由に行動を選択できるという信念があります。ですから、社会的拘束があるというデュルケーム以来のヨーロッパの人類学・社会学の考えとはずいぶん違う。サーベイをするときは、自由に行動する人はどういうビヘービア・パターンをもっているかで分類してしまうので、結果はこうなるのです。実際に集団主義的行動をとるということは、「相互依存で相手の立場にたって考えるという積極的に他を支える態度が対人関係では望ましい」と自分が思うんじゃなくて、人が思っているから自分もそう考え、行動しなければならない。そうしないと適応も出世もできない。周りの条件がそうなっているところでは、自分がそう思わなくても、行動の選択はかなり拘束されます。そうすると集団主義的行動は集団主義的な制度、あるいは社会構造があるところでは、よっぽど変わり者でなければ、集団主義のビヘーヴィアをとることが望ましくなる。サーベイを計画する際に、周りの制約条件というものをもうひとつ入れる事もできるのではないかと思うのです。つまり、日本人の中の誰が集団主義的行動をとるのかということよりも、集団主義的行動をとる人が少なくなれば、それだけ社会の制約条件が変わってくるということを考慮にいれて、そのインディケータとして考える事ができると思うのです。個人が自由に選択できるという前提に立つアメリカの社会心理学を無批判にうけいれてしまうと、構造という感覚が出てこなくなるのではないかと思うのですが。どうでしょうか。

野口:同じ感覚でなくでも、本人が選んでいるつもりじゃなくても、実は選んでいるともいえるんじゃないでしょうか。

武者小路:おっしゃるとおりです。ただ、選ぶ確率が高いという事は、社会的に拘束されている。つまりアメリカで個人主義的なことをやることは、別に抵抗はないし、むしろその方がいい。けれども日本で個人主義的な行動をとることは、かなり勇気がいるという違いがあるのではないでしょうか。

邑中:アメリカ人に癒しが必要かとういう話で、先週面白い記事が「Wired(ワイヤード)」というコンピュータオタク向けの雑誌に載っていました。アメリカで流行っている遊びです。アメリカと言っても東海岸のほうなのですが。不特定多数の人にメールが送られます。ただしそのメールというのが紹介制になっていて、誰かの紹介でなければメールは来ません。そのメールは何かというと、指令が来るんです。どんな指令かというと、例えば、あるデパートのカーペット売場にいって、何月何日の何時からカーペットを見なさい、と。で、そのカーペットを五分みたら立ち去りなさいというような命令です。それを受け取った人は、自分の他に誰がメールを受け取っているか知りませんから他に誰が来るかわからないんですね。ただ、受け取った人っていうのは誰かの紹介なしには来れませんから、自分も他に来る人も選ばれた人なんだ、って意識はあるんです。で、みんなでいっせいにある時そのデパートに来て、カーペットを見て、立ち去っていく(笑)。これはこれで非常に買い物という行為へのパロディになるのだけれど、そういったわけの分らない人たちが来て、それを見て驚く人を見て楽しむ、という喜びのほかに、私がすごく重要だと思ったのは、記事に書かれていたんですが、この遊びがはやった理由です。「何が楽しいんですか」と記者が聞いたときの答えとして、「アメリカでは常に行動に理由が求められる。例えば『僕がこうしているのは、これは何々のために良いと思っているから』という風に、いちいち説明しなきゃいけないけれど、このゲームでは、指令をだされて何も考えずに行動できる。それが非常に新鮮で、楽で楽しい」っていうんです。これはアメリカにおける癒しなのではないかな、と思います。

野口:それは、単に降りているという感じじゃないですかね。日本の場合、癒しというのは、共同体に回帰していくというか、和の雰囲気に戻っていくという意識だから。それは、単純に降りているというか、そこに他者とのつながりはないんじゃないですか?

邑中:今、野口さんがおっしゃった事は、わかります。降りている、っていうのは、私もそう思います。日本においては、今、個人主義的な行動というのが、社会の規範になっている。それで個人主義的に動かなきゃいけない。例えば、サラリーマンなんて、雑誌を読むと、大企業に勤めないで自分で起業するのが、このグローバル化時代の勝ち組みなんだ、なんて書かれているわけですよ。で、大企業にいつまでもぶら下がっている奴は負け組みなんだ、と。個人主義的行動が偉い、と思われているわけです。ただそういう風に急に言われても、今までの学校や社内教育とかの延長では対応できないわけです。でもできない者は、負け組みだと。グローバル社会では居場所がないよ、と、こう言われるんですから強迫観念になってきます。その代償行動として、TOEICなんか受けちゃったりするわけです。自己啓発しちゃったりとか、資格とったりするわけです。ただ、いっつも頑張ってばっかりなんてやってらんないんで、先程言っていた癒しにいく、つまり個人主義頑張ろうゲームから降りるわけなんですね。
で、アメリカにおいても、単に降りてるだけじゃないか、とおっしゃっているのは、そのとおりだと思います。自分の行動に対して、常に理由をもって、しかも説明しなきゃいけない事に対して、疲れる、誰かのいいなりになりたい、と。癒しが降りる、となるのはそのとおりですね。個人が何も考えなくていい状態を一時的に与えるのが癒しだと思いますから。ただし、降りた先の他者とのつながりですが、アメリカ人も教会とか家族とかあるんじゃないですかね。

武者小路:今の話で、今やっと、何故アメリカがブッシュ大統領についていくのか、わかったような気がします。つまり売国の市民はみな降りてしまったわけですね。アメリカの為にこうしたらいい、という事がはっきりしていれば、自分で考える必要がないのです。日本の場合にも、やっぱり個人的に降りるという可能性が大きい。このことについてはっきり認識しておく必要がありますね。

野口:降りるというのは、基本的にアメリカの例だったら、理性的にならなきゃいけない。近代的自我があるんですが、そこから降りるってことですね。ただ日本の場合は、先ほどの金光教ですが、緊張がなんで維持されているのかが、すごく疑問なんですけど。なんでそういう風になっているのかが、とても疑問です。普通、二代・三代と続くと、まぁいいやー、ってなっちゃうと思うのですが。

森:そういうことも勿論あります。でもやっぱり教義の本質として、神と話す事からでないと始まらないというのがあって…。

邑中:金光教というのは、教派神道です。神社本庁の神道に対する。で、緊張関係を維持できない人は、教派神道をやめて、神社神道にいけばいい、という選択肢があるんです。なので、緊張関係が維持しているというのは、皆が維持できているのではなく、維持できる人だけが残っていくから外面的には維持できている状態が継続している、ということではないでしょうか。要するに教派神道は、天皇を現人神だ中心だ、と言ってしまった時点で、教派神道ではなくなってしまうわけです。

武者小路:そういうことと関連してですが、カリスマの日常化という問題があるのではないでしょうか。要するに、宗教の教祖様の時代には、緊張していたとしても、その後も頑張ってリチュアライゼーションで維持するということはすごい宗教だとおもいます。

野口:例えばオウム真理教もそうですが、普通の宗教って、日常から降りちゃっているわけでしょう。だから、金光教の事例は、新興宗教としては逆の特徴があり、そこが不思議だと思うんです。

森:そうですね。金光教の場合は、金光大神のやったことを真似れば救われるということを、否定しています。神と対話するという行動自体が救いなんだ、ということなのです。なので、真似てもしょうがない、と。

邑中:教義が、構造的に緊張を保つようになっている。

森:ええ、そうです。

邑中:逆にいうと、だからメジャーになれない、ということですか。

森:そうですね。

武者小路:また問題が移るのですが、先程の近代化、グローバル化についてです。グローバル化というのは近代化の続きだという事が確認できるのでしょうか。つまりグローバル化の中の「癒し」は近代化の中の「癒し」と同じだろうかという問題です。どうでしょう。要するに、ゲゼルシャフトで皆が目的合理主義的に行動する、という事が世の中を変えるという事が、近代化から始まって、今はイラクでもどこでもそれをしようとしてるのです。民主主義を進めて、それを妨げるものは排除する、という徹底したブルドーザーが、グローバル化という形で開発を進めている。それで世の中をよくしていこうと考え方は、植民地支配もそこから始まった事なのですが。そういうゲゼルシャフトへ移行すればよい、という近代主義のたどり着いたところが、グローバル化だった。近代社会のおしまいじゃないかという問題に、わたくしはぶつかっているわけです。もう一度、ゲマインシャフトの人間関係を大事にするような付き合い方というものについて、再帰的に考える必要がある。

ゲマインシャフトは、恩顧主義というかたちで、悪くすると、政治の汚職にもつながるし、犯罪にもなるし、オウム真理教のようなものにもつながる。グローバル化というのは、植民地時代からのヨーロッパに由来するものなのですが、ヨーロッパではひとつのまとまった秩序ができたのでうまく秩序化できたわけです。それが、そうでない非西欧の諸地域に秩序を押し付けるのは、日本の場合ですと、明治時代からあまり変わっていない、という仮説を立てることができないでしょうか。

品川:グローバル化の中に癒しがあるということは、近代化の中に癒しがあるのかということにも関わってきます。僕は、癒しというのは、全くもってグローバル化の中の現象だと思います。つまり、さきほどから「癒し」というのが、かなりイメージで話されている部分もあるのですが、アイデンティティという言葉を使って定義すると、外にアイデンティティをつくる、ということだと思います。で、近代化というのは、ひとつの方向性として、個の中にアイデンティティをつくれ、というのがあったと思います。そのアンチテーゼとして、集団的なアイデンティティをもう一度つくりましょう、というのが「癒し」である。つまり、グローバル化の中の現象だと思うんです。

野口:哲学をきっちりやれば答えがでてくると思うのですが、ドイツ観念論というのはそういうことだったのではないでしょうか。ヘーゲルの、国家をつくるというのも、集団的アイデンティティをつくる、ということだったんじゃないでしょうか。だから弁証法もでてくるのですよ。西洋近代といっても一枚岩じゃなくて、再帰的なものはあったと思います。

品川:近代化とグローバル化の問題として、いつからが近代化でいつからがグローバル化かというよりも、学問上の捉え方として、事象を、近代化として捉えるのかグローバル化として捉える、というのがありまして、事象を、近代化ではなくグローバル化の現象としてとらえるからこそ始めて見えてくる事がある。ドイツでのヘーゲルの国家の集団的アイデンティティをつくるという事は、グローバル化という現象として捉えて初めて見えてくる部分ってあると思います。その時代のヘーゲル、国家というのはわりと、ネーションステートとして、個人主義をサポートする国家という意味合いが強かったと思います。勿論、「近代化」と呼ばれる時代の中にも「癒し」的な現象があったのでしょうが、それを癒しという現象で捉えたことはなかったのではないかと思います。

武者小路:おっしゃるとおりだと思いますが、整理しますと、近代化の時代と、グローバル化の時代の違いは、近代化の時代は、民族国家によるアイデンティティの整理ができた。それは、三つの形ではっきりしている。ドイツ、ヘーゲル的な形でのナショナル・アイデンティティ、隣のフランスでは啓蒙主義的な意味での市民と国家の契約、そしてアングロサクソンの世界だともっとプラグマティックな形で、ロック的な契約でネーションをつくる。わたくしが関心をもっている人間安全保障の問題なのですが、国家が安全保障をしてくれるし、癒しもしてくれる、社会保障もしてくれる、という国家が中心にできた時代があった。ところが、グローバル化時代になると、もう国家は頼りにならない。そこで、アイデンティティの問題で、人々の生活がめちゃくちゃにされてしまう。そこで、どこに癒してくれるようなアイデンティティを見つけられるかという問題が深刻な形で登場してくる。ヘーゲル的気持ちをもった右翼の人たちはいるけれども、国家はそれだけの能力はなくなっちゃったというところがあるのではないでしょうか。そういうふうに考えられないでしょうか。

三入:グローバル化というのは西洋近代がつくりあげた最後の形態ではないかと思います。具体的な例になるのですが、数年前に、東南アジアの経済危機がありました。アメリカのヘッジファンドがタイから急速に資金を引きあげたので、たちまち経済が崩壊してしまい、その影響はすぐに東南アジアに広がってしまった。しばらくしたらロシアもおかしくなった。結局、お膝元のアメリカも揺らいだわけです。アメリカ経済も大混乱しました。大変なことだったのです。そのときに、ヘッジファンドには、ジョージ・ソロスという世界的に有名な人が関わっていたのですが、彼はグローバル化を象徴する人です。その彼が言った事はなんだったか。それは、自分は今まで散々好き勝手にして非常に多くの人を苦しめ、会社も苦しんで、自分自身も苦しんだ。今彼は、国際的な新しい規制をつくって、金の流れを世界的に制限しなくてはいけないと、米政府や大学の教授らが言っている事と全く反対な事を言ったのですね。グローバルな金の動きをどうコントロールすべきか、そういうことを彼は非常に真剣に考えたんですね。彼は、まさに近代を象徴している男だからなのです。自由世界が今まで繁栄をしてきたのに、ここまできちゃうともうこのままではどうしようもない。今は、経済を最先端とするグローバリゼーションです。それがもうコントロール不可能なところまできちゃったんだということでしょう。

武者小路:今のお話で、今朝からの話の中で抜けていた、かなりの政治経済的側面の問題をだしていただいたことについて感謝します。

三入:ゲゼルシャフトが、すごい勢いで拡大してきた。コンピュータがおかしくなるとか、あちこちで大きな問題が起こる。アメリカの大きな会社が倒産しちゃったとか、歴史ある会計会社が倒産しちゃったとか。近代の最後の一面は否定されたわけです。今まで近代の仕上げとして作り上げてきたものを、つまりゲゼルシャフト的なものをもう一回見直して、結局、我々人間というものは、ゲマインシャフト的なものがないと生きられないのではないか。そこにあらためて癒しとか宗教とかが求められるようになったのではないか。



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